2022親子で学ぶ「福山市内戦争遺跡巡り」

~平和を次世代につなぐために~

日時 2022年6月19日(日)午前9:00~11:30

福山市人権平和資料館

受付

戦争遺跡巡り開会

① 備後護国神社(福山市丸之内)

 1868年(明治元年),福山藩主阿部正桓によって野上八幡神社として創設。石州戦,箱館戦での戦死者を祀りました。旧福山藩から出兵し佐賀,台湾,西南戦争で戦死した者を合祀。日清,北清,日露,日独戦,満州,支那事変の戦死者の合祀が続きました。周辺には14基の慰霊碑が建立されています。鳥居は草戸町の旧護国神社から移設しました。

② 阿部神社赤門と捨生取義の碑福山市丸之内)

福山に残る戦争碑の中でも最も古いものです。裏面には幕末の石州の役から箱館五稜郭の役,佐賀の役,台湾の役,西南戦争まで福山から出征し犠牲になった兵士の名前が刻まれています。この碑は「生を捨てて義を取る」と読みます。自分の命さえ捨てることを惜しまない。まさに幕末維新の諸戦争に殉じた兵士たちの招魂碑・慰霊碑といえます。戊辰戦争で長州軍をくい止めたのがこの赤門です。

④ メレヨン島戦没者慰霊碑(福山市丸之内)

グアム島から500キロ以上も離れた絶海の孤島メレヨン島に約6500人の兵士が取り残され約5000人の兵士が飢えによって餓死しました。降伏を認めない日本軍の非人間性が最も強く表れた島です。

陸軍少年飛行兵戦没者慰霊之碑・萬寳山之碑

⑥ 防空壕跡(福山城公園内)

本土空襲が激しくなると,国の指導によって,各家々に防空壕を掘りました。福山市内の多くの防空壕は深く掘りすぎると水がしみ出るので半地下方式でした。しかし,家用の防空壕はほとんど役に立たず,崖を利用した防空壕に逃げ込みました。

⑦ 安部和助邸玄関口(福山城公園内)

福山城二ノ丸下段北側の城米蔵があった位置に建てられています。明治時代になって,この周囲は民間に払い下げられ,安部和助により大規模な別荘が建設されました。福山空襲で玄関,台所,居間は焼失しましたが,大広間,広間,西客間,北客間,西茶室,南茶室は被災をまぬがれ,現在の福寿会館として使用されています。

⑧ 福山城の戦災石垣(福山市丸之内)

福山駅の北側道路沿いの石垣は,高いところまで炎が長時間当たったことを示し,石は赤く変色しています。築城時の鋭角の石は炎熱により丸くなり,今も石は崩落が進んでいます。

⑧ 福山城天守閣北面(福山城公園内)

それは,悪夢のような夜であった。8月8日午後10時25分過ぎわずか3発の焼夷弾が火の玉のように5層の天守に吸い込まれていった。ややしばらくして炎は天守の5層の窓から噴き出て,夜空を紅蓮にそめて,4層へ,3層へと火の粉を舞い上がらせながら城の崩れていく光景を見た。」と福山城の炎上を目撃した人は証言しています。

⑨ 被爆アオギリ二世(人権平和資料館)

原爆によりヒロシマの街は一瞬にして廃墟となりました。当時広島は,放射能のため70年間は草木も生えないと言われていました。ところが枯れたと思っていた「アオギリ」から新しい芽が出てきたのです。一生懸命生きようとしている「アオギリ」に,私たち被爆者は勇気と生きる希望を与えられました。

⑩ アンネのバラ(人権平和資料館・ホロコースト記念館)

アンネの日記に深い感銘を受けていた,ベルギーの園芸家デルフォルヘさんは,1959年旅先のスイスでオットー・フランクさんと出会い,アンネはバラが大好きだったということを知り,平和を願い続けたアンネへの思いを込めて父に送ったバラです。

閉会