田辺先生講演

3回ピースナビ

田辺先生講演会メモ

2018715

元福山人権平和資料館副館長 田辺準一郎

「今、伝えたい『福山空襲』」

~母と子の八月八日~(絵本)

2年前、ハワイ真珠湾での会合がありました。会議が行われた部屋の下には米軍の軍艦が沈んでいます。この会議はTVで中継されましたが、アメリカのレポーターが、「戦争でたくさんの命が奪われ、一生懸命築いてきたものを壊してしまった。一番悪かったのは何か?」と質問していました。


私(田辺)は、「暮らしそのものを壊してしまった。一番悪かったのは、攻撃していった日本軍」、あるいは「アメリカ軍が悪い」と言う答えが返ってくるだろうと考えていました。しかし、インタビューに答えたアメリカ人は、「それは戦争です」と言い切ったのです。その言葉が今も私の心に残っています。あってはいけない戦争をなくしていく、平和を築いていく、そのための話を今日はしていきましょう。


1945年88日、当時私は小学5年生で、現在の一ツ橋中学の対岸に住んでいました。暑い日でした。夜更けに空襲警報が鳴り爆弾が投下されました。B29爆撃機が飛んできて、AN-M17A1(収束爆弾M50焼夷弾110本内蔵)416.5米トン、AN-M47A2(油脂焼夷弾)1392米トンを投下。集束爆弾は途中でバラバラになります。これは貫徹力があります。この空襲では354名の命を奪い、800人の重軽傷者が出た。当時の福山市の人口は58,745人であったが一人あたり3発の焼夷弾が落とされたことになる。油脂焼夷弾は4000発。祖父は「家が燃える、家が燃える」と家の周りを歩き回っていた。2日前の広島原爆が福山にも落ちてきたと思った。そして、一晩で福山の町はなくなったと思った。

福山市戦災死没者慰霊の像(母子3人像)の前で訴える。母は31歳、5歳と2歳の子ども。田んぼ(今のリーデンローズの西側)の方へ逃げようとした。遺体を引き取りに行ったとき、母もしんいち君も片方の足はなかった。3人離れることなく横たわっていた。この3人像を資料館の中央に設置している。若い命、尊い命を奪っていくものをなくしていきたい。この母子3人像祖しっかり見てほしい。

もう一つの福山空襲

たびたび襲撃を受けた福山海軍航空隊

神風特別攻撃隊の出撃

近くの海水浴場に民間の病院の養成所があったが、戦時中に海軍航空隊基地(大津野)になった。フロートのついたたくさんの飛行機があった。この基地は10回ほど襲撃を受けた。四国沖の航空母艦から飛び立った爆撃機が福山を目指す。九州・天草へ出発を見送る隊員。知覧は陸軍の特別攻撃隊で、駒がついている飛行機だが、福山は海軍なのでフロートがついている。20人ほどの隊員がロープを弾いて飛行機の準備をする。どんな気持ちでロープを引いたのか。もう帰ってくることのない仲間を思いながら引いていたのだろうか。広島から来たNHKの記者が、「この飛行機で出撃したのが私の兄です。」と語ったことがあった。帽子を取り、「ぼうふれ」。終戦直後、飛行機をばらばらにし潜水艦に2~3機積み、パナマ運河まで運ぼうとしたが、そこに着くことはなかったようだ。現在のJFEの地で、のどかな海水浴場が戦争のための飛行場になった。

尺八が大好きな父に、親しい友の海軍航空隊の教官がいた。ある時、「これから遠くへ行くことになる。それが決まったら大好きな尺八も吹けなくなる。いつ、どこへはマル秘。」と語っていた。どうも決まったらしいから表へ出てみよう。飛行機がやってきて、家の上空で旋回し、合図のために翼を揺らすバンク(飛行機が右や左に傾く運動)をしてから飛行場のほうへ去っていった。父は、寂しそうに「ああ、とうとう行ってしまったか」とつぶやくように言った。

戦争が奪うもの、それは「いのち」だけなのでしょうか。

「どうして戦争なんかするの?」との問いに。

 

大好きな音楽、得意なスポーツを、きれいな草花を、人間が長い間培ってきた文化…すべてを奪ってしまうのが戦争ではないでしょうか。5歳のA君が質問する。「どうして戦争なんかするの?」戦争をなくすために大切な問いかけだ。「帰って家族と一緒に話し合って、考えてね。みんな仲良しだね。自分が好きなことをする。そういうことをしとったら仲良くできん。」と、しっかりお話をする。子ども達からそのことを教わった。相互理解のために話し合うこと。時間がかかる、しんどくなる。仲良くする約束もしないといけない。じゃんけんで決める。ルールがいる。父、姉、だれでも対等平等の関係であり、信頼関係が最後に残る。