福山城周辺戦争遺跡巡り 佐道先生

捨生取義の碑

福山に残る戦争碑の中でも最も古いものである。裏面には幕末の石州の役から箱館五陵郭の役、佐賀の役、台湾の役、西南戦争まで福山から出征し犠牲になった兵士の名前が刻まれている。

この碑は「生を捨てて義を取る」と読む。中国の故事に「義に殉じた武士の血は三年経つと碧(みどり)になる」という言葉がある。自分の命さえ捨てることを惜しまない。まさに幕末維新の諸戦争に殉じた兵士たちの招魂碑・慰霊碑といえます。備後護国神社の一角に赤門があり、その脇に花崗岩製の石碑が建つ。

 

1886年(明治19年)建立。

 

箱館戦争長州藩に幕府軍として福山藩が参戦、敗退。福山藩主「阿部正方」の死去後、新政府軍に加わり、箱館戦争に参加。幕府軍の総隊長(指揮)、榎本武揚なり。同じく戦った土方歳三(新撰組)...戦死

「榎本武揚は、黒田清隆(後の首相)の説得により降伏(入年)。海軍に対する知識を認め、明治政府の要職など務める(逓信大臣・文部大臣・外務大臣・駐ロシア大使・東京農業大学理事長) 榎本武揚の父は、日本地図を作成した伊能忠敬に師事した榎本良助。神辺町出身。通称-箱田良助。

 

東部ニューギニア方面戦没者慰霊碑

我が歩兵四十一聯隊は、太平洋戦争に於いて遥か南溟(なんめい南方の大海※)の涯パプアニューギニアに転戦しオーエンスタンレー(※オーエンスタンレー山脈(OwenStanleyRange)は、パプアニューギニア南東部にある山脈。最高峰はヴィクトリア山の4、072m。ビスマーク山脈から連なる山脈であり、ニューギニア島の南東端まで続いている。北東-南西方向に伸びており、山脈の延長は約600km。19世紀にイギリス海軍のオーエン・スタンレーによって発見された。また、第二次世界大戦中のポートモレスビー作戦においては、日本軍とオーストラリア軍・アメリカ軍との間で戦闘が行われたことでも知られている。)の峻嶮(しゅんけん険しい山※)を突破目指すポートモレスビーを指呼の間(※呼べば答えるほどの近い距離)に望みながらも戦況我に利あらずして反転せり、人跡未踏千古斧(※千古=大昔より。おの)を入れざる密林にて近代設備を誇る優勢なる米豪軍を腹背に受くるに至り孤立無援撃つに弾丸なく喰うに食なく傷病を癒(ゆ)ずに薬なく人間生存の極限を超えたり、熾烈(しれつ)なる敵の鉄砲火と飢餓によりて戦友等の蹩れ(たおれ)ゆきし様相たるや壮烈悲愴現世にあらざる惨状にして筆舌につくし難し、唯々祖国日本の栄光と繁栄を念じつつ草むす屍と化せし二○二一柱の英霊の勇姿彷佛として今なお眼前に去来す我等生き残りし者相集いてニューギニアに慰霊すること再三我等が慟哭を聴き給えりや戦い終わりて三十有六年戦友等が死の間際まで求めて熄む(やむ)ことなかりし平和への願いをこめ漸く(ようやく)比の碑を建つ、御魂よ此処に鎮り(しずまり)給いて安らけく永久の眠りにつかれんことを祈る心や切なり此の碑を後世に残して我等が平和希求の証とせん。昭和五十六年五月              歩兵第四十一聯隊東部ニューギニア戦友会

 

*歩兵四十一連隊は、南海支援に追加配属され、1942年(昭和17年)8月ラバウル経由でニューギニア島ブナに上陸、オーエンスタンレー山脈越え、ポートモレスビーを目指す。9月ポートモレスビーまで約50kmのイオリバイワを占領したが、補給が途絶え、米豪軍の反撃により敗退し撤退。南海支隊は全滅寸前にまで追い込まれ人員は半減した。歩兵第四十一連隊は1943年(昭和18年)8月、第5師団から第30師団へ所属が変更になった。

 

第65旅団戦没者慰霊碑

第六五旅団七千三百名は昭和十六年八月編成、 司令部福山歩兵-二二松山 歩兵-四一福山 歩-四二松江 工兵隊 通信隊 野戦病院広島は十一月十四日 宇品発 台湾で戦闘訓練 十七年元日比島リンガエン湾上陸 バターン半島でマッカサー指揮の米比軍十余万と激戦 多数の犠牲者を出しナチフサマットを攻略 四月十日米比軍に降伏 右戦功で賞詞を受ける ルソン島平定作戦後第八方面軍指揮下に入り 司令部 歩-四一は十二月三日ラバウルに進出 歩-二二は南洋群島へ 歩-四二は比島防衛 工兵隊 通信隊 野戦病院は分属 十八年五月旅団はソルフに進出 十二月米海兵隊第一師団は猛烈な空爆艦砲射撃のもとに上陸 我軍はマーカスッルブ 三角山 青桐台 万寿山で玉砕を期し応戦中一月末ラバウル終結の運命に依り約七百キロ 人跡未踏のジャングル湿地帯を行軍 飢とマラリヤで半数の将兵を失い 四月末ラバウル着 敵上陸に備え訓練 陣地構築 現地自活中終戦 二十一年五月十六日 二千七百八名 名古屋上陸復員 比島及ラバウル方面戦没者の武勲を称 えここに慰霊碑を建立する

昭和四十九年十一月三日 第六十五旅団夏友会

 

メレヨン島戦没者慰霊碑

ここ備後護国神社頭の「メレヨン島戦没者慰霊碑」は、1966年(昭和41年)に建立された。以来メレヨン関係者の戦没者への慰霊鎮魂の象徴となっている。この島での戦況は碑文で明らかなように戦争がもたらす特異な極限環境であった。しかし戦史には埋没され多く語り継がれることなく必ずしも後世への戒めとはなっていない。

 

 慰霊碑はまことに象徴的に過ぎ、個々の戦没者への鎮魂の証としてはなお十分とはいえない。メレヨン島では地上戦はなく、転進もかなわず彼我両軍に見はなされ補給は杜絶、守備隊陸一年有半(1944年3月~1945年9月)の間にほとんど戦わずして疾病と飢餓に斃れた。その惨状にもかかわらず戦没者個々の氏名没年月日などの調査把握は他の戦場に比べ容易と判断され、かねてから全戦没者名碑の建立が提唱されていた。しかしこの調査は戦後50年余を得た今日、極めて困難な作業であったが発議後三年にして、ようやく可能な限りの確認ができ、慰霊碑の後背に建立することができた。

 

 ここに名実ともにメレヨン島全戦没者への慰霊弔魂の証が実現したことになる。広大な太平洋戦域の中で一つの孤立した戦場で陸海軍将兵、軍属の全戦没者名を刻名した碑は他にその例を見ない。故郷に残した肉親への切なる想いを断ち切られながらも祖国の繁栄を念じながら、若く南溟の孤島に散華した戦没者の無念を思うとき、遺族、生還者とも断腸の思いで哀悼と悔恨の涙を禁じ得ない。

 

 戦争の世紀「二十世紀」はまさに終わろうとしている「銘」とは深く永く心に刻むことである。このときに当たり戦没者お一人お一人の御名を称え、その面影を偲び、当時の戦況に想いを馳せ、あらためて碑前に心からなる祈りを捧げ「過ちは繰り返しませぬから」の決意を込めて来るべき新世紀への平和の誓いとする。

 

 戦没者の中には南溟の孤島メレヨン島守備のため南下中、1944年(昭和19年)1月11日豊後水道で撃沈された「江りい丸」198名にもおよぶ犠牲者の無念をはじめ、メレヨン島から後送されて途中マリアナ海域で戦没した人々、1945年(昭和20年)別府に帰還直後祖国の山河を見ながら恢復できず病没された人々も併せて刻銘した。その総数五千百余柱となった。また、海軍指令宮田嘉信、陸軍旅団長北村勝三、陸海軍最高指揮官はその責に殉ぜられたことも特記する。